雨の日の初恋(中編)
拓海の部屋の前に立ち、ノックをする。
はい、と返事があった。中に入った私の表情を見て、拓海が目を丸くする。学習机に向かって、宿題をしていたようだ。
「駅に行くのは、もうやめなさい」
「……え?」
「あそこには、幽霊がいるらしいわ。"雨の日だけ"出てくる幽霊が、ね」
そうまくしたてた瞬間、拓海はキッと眉を上げた。椅子から立ち上がり、こっちに身を乗り出す。
「美雨子さんが、幽霊だって言うの!?」
「拓海。……雨の日以外でその人に会ったことは?」
「……それは、だって……。美雨子さんは、雨の日じゃないと、あなたには会えないって言ってたから……」
それでどうして、ムキになれるのか。内心呆れながら、私は言い聞かせた。
「なら私は、あなたをそんな危険な場所に行かせるわけにはいかないわ」
「危険じゃないよ!」
「どうして、危険じゃないなんて言い切れるの?」
「お母さんこそ! どうして美雨子さんのこと、そんなふうに言うのさ!」
ああ、押し問答になってきた。
私はいったん口をつぐみ、考える。拓海も唇をかみしめ、じっとこっちを見つめていた。お互いに、どう話をすれば相手を納得させられるか、思考を働かせているみたいだ。
「それなら!」……と、沈黙をやぶったのは、拓海だった。一歩、足をこっちに踏み出して、力いっぱい私を見上げながら、こう言った。
「次に雨が降ったら、お母さんを美雨子さんのところに連れていく! そしたら、美雨子さんが危ない人じゃないってわかるでしょう?」
*
タイミングのいいことに、翌日、雨が降った。ふたりで傘を差しながら、駅へ向かう。
拓海と美雨子さんが会っていた駅は、私がかつて、通学で利用していた場所だった。毎日色んな学生でにぎわっていたはずなのに、いざ足を踏み入れると、別の建物みたいだった。
そこらじゅうにツタが絡まり、屋根はぼろぼろ。きっと、長いあいだ忘れ去られてきたのだろう。
そんな寂しい場所に、美雨子さんはいた。ベンチに腰掛け、雨が降る空を、ぼんやり眺めている。
「美雨子さん!」
拓海が声をかけると、美雨子さんが振り返る。
なんて綺麗な髪だろう。……思わず見とれてしまった。背中をおおうほどの黒髪は、クセひとつなく、さらさらしている。
服装も、清楚な顔立ちにぴったりだった。フリルのついたワンピースに、ふんわりとしたストールを巻いている。
……シルエットはずいぶん大人っぽいけど、拓海は「高校生くらいだ」と言っていたっけ。たしかに、顔立ちはあどけなさが残っている。だからこそ、彼女の可憐さを引き立てていた。
嬉しそうに駆け寄る拓海を、美雨子さんは愛おしそうに見つめていた。
こちらに気づくと、にこりと微笑みお辞儀をしてくる。その礼儀正しさと、拓海に対する物腰がとても優しそうで、ほっとする。
ああ、普通の女の子だ。……足下が透けている、それ以外は。
美雨子さんは、恐らく立ち上がったのだろう。目線が近くなる。陰にあったベンチから、日向へ出ていく。
すると、彼女には影がないのだと気づいた。息をのむ私に、美雨子さんがもう一度、お辞儀をする。
「こんにちは。あなたが拓海くんのお母様、ですよね?」
「は……はい」
すっかり動揺している私。語尾が震えてしまったので、美雨子さんを傷つけてしまったかもしれない。私を見つめる目元が、寂しそうだったから。
「……お母様は、私の正体に気づいていらっしゃいますか?」
と、尋ねてくる。
しどろもどろになりながらも、
「はい。うわさになっているようですので……」
と、答える。拓海はショックを受けたような顔で私を振り返ってから、美雨子さんに訴えかけた。
「みっ……美雨子さん! お母さんは心配性なだけで、美雨子さんを悪く思ってるわけじゃ……!」
「大丈夫。わかってるよ、拓海くん」
拓海をなだめるように、美雨子さんが微笑んだ。つい心が安らいでしまうくらい、安心する表情だ。
内心見とれていると、美雨子さんはふたたびこっちへ視線をもどす。
「……私は、この駅がまだ動いていた頃、死にました」
私と拓海が、息をのむ。美雨子さんは、細い手をきゅっとにぎりしめ、ぽつぽつと話してくれた。
生まれつき、重い病気をわずらっていた美雨子さん。
学校に行けず、友達もできなかったそうだ。両親は自分を愛してくれたけれど、生活は決して楽なものではなかった。
……自分の、病気のせいだった。いくらお金や時間を費やしても、消え去ることのない悪魔。
孤独な毎日。苦しむ両親。絶望的な未来。ただ生きていることさえ、美雨子さんには苦しかった。
自分は、いなくなった方がいい。
そう決心した美雨子さんは、駅から身を投げた。その日はちょうど、雨が降っていた……。
「次に目を開けたとき、私はここに座っていました」
美雨子さんがしゃがみこみ、さっきまで自分が座っていたベンチをなでた。
「最初は、自分がどうなったのか、いまいちわかりませんでした。……でも、駅の風景が、ずいぶん変わっていました。それに私を見た人が、怯えたように逃げ出したんです。それなのに、晴れの日は、だれにも見えていないみたい。……幽霊になったと、ようやく気づきました」
胸の中に、悲しい気持ちが広がっていった。
自分の過去を語る美雨子さん。その口調はあまりに穏やかだったけど……悟ってしまった。
美雨子さんはつらい現実から解放されたくて、身を投げたのだろう。
だけど、彼女を待っていたのは解放ではなかった。
いや、解放どころか……孤独な気持ちが、さらに深まったのかもしれない。
この駅が動いていたのは、私が高校を卒業した年まで。……もう、何十年も昔のことだ。
そんな長いあいだ、美雨子さんはどうすることもできなかったのだ。
こんな……人々に忘れ去られた場所で、ひとりきり。
「でもね、拓海くん」
美雨子さんが、拓海の名前を呼ぶ。
泣きそうな顔でうつむいていた拓海が、はっと顔をあげる。美雨子さんはふわっと微笑むと、かがみこんで、拓海に視線を合わせた。
「あなたと出会ってから、すっかり寂しくなくなった。色んな話を私に聞かせてくれて……たくさん、笑いかけてくれたわ」
美雨子さんは、拓海の頬に手を伸ばす。
だけど、白い手はすぅっと透明になって、拓海の頬をすり抜けていった。
……悲しくなった。美雨子さんは、拓海に触れることも叶わないんだ。
だけど美雨子さんは、それでも構わないというように拓海を見つめる。
「ありがとう」
ゆっくりと、そう言った。
温かく、じんわりと広がるような、感謝の言葉。
拓海の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。美雨子さんの体が、どんどん透明になっていく。
「僕も」
拓海はあわてて、声をはりあげた。
「僕も、ありがとうっ……!」
彼の叫びを、たしかに美雨子さんは聞いたのだろう。
空気になって溶けていく、その間際。……彼女の目尻に、まあるい雫が浮いていたから。
「…………」
しばらく、呆然とした。
……今のは、現実だったのだろうか。なんだか夢を見ているように、頭がぼーっとする。
「……僕、ほんとは」
どれくらい黙っていただろう。拓海が、ぽつぽつと話しはじめた。
「美雨子さんが幽霊だって、最初から知ってたよ。"たまたま散歩で通りがかった"なんて嘘なんだ」
拓海のひざから力が抜けて、どさりとくずれ落ちる。
「……クラスの子がうわさしてたんだ。幽霊がいるんだって。それで、本当かなって、たしかめに言ったんだよ? そしたら、美雨子さんがいたんだ。まるで普通の人間みたいに優しくて、綺麗な人なんだよ。だから、信じたくなかった。美雨子さんの足下が見えなくたって、触ることが、できなくたって。信じたくないんだよ、そんな……そんな……」
ばっと、両手で顔を覆うと、叫ぶ。
「初恋の人が、幽霊だなんて!!」
それから、わあっ、と大声で泣き出した。
何も言わず駆け寄り、小さな肩を抱き寄せる。しゃくりあげる背中をさすり、つられるように涙を流す。たったそれだけしか、できなかった。
雨は、降り続けている。まるで拓海の悲しみを体現するように、激しくて、冷たかった。