お母さんのレシピ
これから、料理をするんだ。
エプロン姿で台所に立つと、いよいよ実感が湧いてくる。ドキドキするだけじゃなくて、緊張もする。
失敗しないかな。……そんな不安がよぎったけど、ぶんぶんと首を振った。
それでも、わたしは作りたいんだ。意を決し、手に持っていた一冊のノートを広げる。茶色いノートの表紙には、こう書かれている。
【お母さんのレシピ】
温かみのある字。タイトルが示すとおり、お母さんがつくったノートだ。丸々一冊、さまざまなレシピが載っている。手描きのイラストも交えて、わかりやすく記してくれているそのノートを、わたしはたくさん、たくさん読んできた。
そしていよいよ、実践しようと思う。
お母さんのレシピを使って、クリームシチューを作るのだ。
他の誰でもない、お父さんのために……。
*
先月、お母さんが亡くなった。
しんしんと雪が降り積もる、寒い日のことだった。
元々体が弱かったお母さんは、わたしが小学四年生に進級したその日、とうとう倒れてしまった。それから八カ月間を病院で過ごし、やがて、帰らぬ人となった。わたしと、お父さんを遺して。
お母さんが入院して以来、この家から笑顔が消えた。会話も消えた。
コンビニ弁当や惣菜を、二人きりで囲む食卓。すごく味気なかったし、居心地が悪かった。お母さんが息を引き取ってからも、それは変わらない。
お父さんは、最愛の妻を亡くした悲しみから、どんどん弱っていった。食事を残すことが増えたし、仕事が終わって家に帰ると、寝るだけになってしまった。
わたしももちろん、つらい。泣いて、泣いて、涙なんてすっかり涸れたと思うのに、ふとしたときにあふれてくるほど。
学校に行くことはできたし、支えてくれる友達もいるけれど……胸の内は、いつだって空っぽな気がした。
そんなわたしを変えてくれたのは、このノートだった。
『これ、愛ちゃんに』
ノートを渡してくれたのは、叔母さんだった。
『それ、愛ちゃんのために作ったものなのよ。いつかプレゼントするんだって、時間をかけて用意していたんですって』
叔母さんは、目をうるませながらわたしを見ていた。
わたしも、また泣いてしまった。
お母さんの手料理を食べるのは、わたしの楽しみだった。
いつだっておいしくて、おいしくて……。
一番好きだったのは、クリームシチューだった。
あまりにお気に入りすぎて、何かにつけて「お母さんのシチューが食べたい!」とリクエストするくらいだった。
お父さんも、それは同じで……だからだろうか。我が家では、特別な日にはクリームシチューを作るのがお決まりになっていた。
誰かの誕生日や、クリスマス。わたしがテストでいい点数をとれたとき。
そして……お父さんに、嫌なことがあった日。
毎日頑張って働いているお父さん。きっと、大変なこともいっぱいあるだろう。
そんなときは、お母さんの手作りシチュー。
どんな魔法よりも、効果があるんだ。だって、お父さんがどんなに疲れた顔をして帰ってきても、お母さんのシチューを食べたとたん、優しい顔になるんだもの。
どんなときだって、「おいしいなぁ……」って、微笑んでいたんだから……。
もう、お母さんがシチューを作ることはできない。
でも、わたしがいる。
お母さんのレシピを託されたわたしなら、きっとできる。
悲しみに暮れたお父さんを元気づける、魔法のシチューが。
*
わたし専用の踏み台に乗り、包丁をにぎる。
……包丁は、まだ数えるほどしか使ったことがない。心なしか刃先が震えている。
落ち着け、落ち着けと言い聞かせながら、具材を切った。じゃがいもやにんじんは、難なく切れたけど、玉ねぎが目にしみてつらい。
ぼろぼろこぼれる涙をふきんでぬぐい、鶏もも肉をとりだす。
ぬるぬるとしたお肉は、簡単に切れてくれない。包丁を押すようにして切るのよ、そう教えてくれたお母さんの言葉を思い出して、包丁を動かす。
「痛っ」
手を滑らせて、お肉ではなく、指を切ってしまった。
痛い。血も出てくる。泣きたくなったけど、あきらめるもんか。
ばんそうこうを探してきて、指に巻く。そして、料理を再開した。
なんとか、具材を切り終えた。次は、これらを火に通す。
レシピに書いてある通り、お鍋に油をしいて、炒める。
お肉を入れたときに、じゃー、と音が鳴ってびっくりした。油が跳ねているのが見えて、こわくなる。ビクビクしながら、野菜も追加していった。
「……“全体に油が回ったら”……。……これくらいで、いいのかな?」
ノートを確認しながら、つぶやく。
計量カップに入れていたお水を注ぎ、コンソメキューブを入れる。沸騰してきたらあくを取りのぞき、ふたをして弱火で煮込む。キッチンタイマーを、十五分にセットしておこう。
……煮込んでいるあいだに、ホワイトソースの用意をする。
冷蔵庫から、牛乳とバターを出す。別の鍋を用意して、バターに小麦粉を入れて炒めた。ペースト状になってきたら、牛乳を注ぐ。
「わぁ……!」
生クリームみたいになめらかになっていく。嬉しくて、つい声をあげてしまった。
お母さん、わたし、ひとりでシチューを作ってるよ。
レシピを残してくれたおかげで、こんなに上手に作れてるよ。
……お母さんにも、見せられたらいいのになあ。そんなふうに思いながら、具材に火が通るのを待った。
ピピピ……とタイマーが鳴る。
お玉でにんじんをすくい、竹串をさす。赤いにんじんに、細い串がすぅっと通った。
「……よしっ」
あとは、仕上げだ!
できあがったホワイトソースを、鍋に入れる。おたまでゆっくりかき混ぜていくうちに、上手になじんでくれた。とろみがついてくると、嬉しさにまた声を出したくなる。それを我慢しながら、塩こしょうを振る。
「どうかなぁ……」
おたまでひとすくいしたシチューを、小皿に入れる。ふぅふぅ、と冷ましてから、一口。
「……おいしい!」
この味だ。お母さんが作ってくれた大好きなシチュー、そのままだ!
喜びで、胸がかーっと熱くなる。思わずにやついてしまうわたしだけど、そこでアクシデントが起こった。
わたしが乗っている、踏み台が、バキッと音を立てた。
「えっ……」
大きく体のバランスをくずす。とっさにわたしが手を伸ばし、つかんだのは……シチューが入ったお鍋だった。
*
車から下りたとたん、寒さに身震いする。
厳しい冬は、まだまだ終わりそうもない。
以前は、冬が好きだった。スーッとはりつめた空気も、温かい冬服も。雪が降るのは困るけれど、そのぶんシチューがおいしい季節だから。
……妻が作ってくれたシチューは、何よりもおいしかった。悲しくなりながら、玄関のドアを開ける。
すると、いいにおいがした。僕は驚いて、台所を見る。
これは……たった今思い出していた、シチューのにおいだ。
動揺する。まさか妻が作ってくれたのか……なんて、そんなはずがない。
愛が作ってくれたのだろうか。
妻の死後、食事の買い物は彼女に任せていた。
もしかして、僕のためにシチューを作ってくれたのか。わきあがってくるのは、ほのかな期待だった。
……でも、耳に届いた声に、はっとする。
愛はどうしてか、泣いているようだった。あわててくつを脱ぎ、台所に顔を出す。
床に座り込んでいる愛が、泣きじゃくっていた。
「愛」
声をかけると、小さな肩がびくっと動く。顔を上げた愛の目は真っ赤になっていて、僕は苦しくなる。
「何があったんだ?」
愛の前にひざまずき話しかけると、愛がある方向を見た。
自分の足下に、鍋が転がっている。鍋の中から、クリームシチューが無残にこぼれていた。
「シチューを、作ってたの。でも、踏み台が壊れて……シチューを、こぼしちゃって……せっかく、作ったのに……っ」
その言葉通り、脚の部分がぱっきり折れた踏み台があった。そういえば、親戚の子供が使っていたものを、愛のために譲ってもらったものだった。相当古くなっていたんだろう……。
「ごめんなさい……お父さん……ごめんなさい……っ」
「……愛。けがはしてないか?」
「……っ」
穏やかに問いかけると、愛がこくこくとうなずいた。たしかに、どこもけがはないようだった。そのことに、心底ほっとする。
僕は腰を上げ、鍋をつかんだ。だいぶこぼれてしまっていたけど、少しだけ中身が残っていた。お玉で一口すくうと、食べてみる。目を丸くした愛が、じーっと、僕の様子をうかがっていた。
「……美味しい」
愛の目から、ぽろりと涙がこぼれる。僕は自然と、微笑んでいた。
「美味しいよ、愛」
「……本当?」
うなずくと、愛も微笑んでくれた。
「これね、お母さんのレシピで作ったんだよ」
立ち上がった愛が、一冊のノートを見せてくれる。のぞき込むと、懐かしい字やイラストが、たくさん描いてあった。
どっと、感情の波が押し寄せてくる。妻を思い出すものを見せられると、とても苦しかった。そんな僕に、愛が声をかけた。
「……お父さん」
愛を見ると、まっすぐに僕を見つめていた。
「わたし、頑張るから。お母さんみたいに、おいしい料理を作れるようになるよ。だから、お父さん。……わたしの料理、食べてくれる?」
「……っ」
……ああ、……なんてことだ。
妻を亡くしてから、僕はずっとふさぎ込んでいた。
なんとか仕事は続けていたけれど、家に帰ったとたんに力が抜けて、ベッドに倒れ込んでいた。思えば、働くか寝るかの毎日だった。そうしているうちに、大切なことを忘れていたんだ。
……妻は、もういない。
でも、愛がいる。こうして一生懸命、僕のことを見てくれている、可愛い娘が。
「……ごめんな……」
目頭が熱くなっていくのを、こらえることができなかった。
シャツのすそで、涙をぬぐう。愛も、泣いているようだった。
「……父さんも、頑張るよ。頑張って、お前を守るから」
「……うん」
「片付けようか。もう一回、作って見よう。父さんにも、教えてくれよ」
そう言うと、愛が笑ってうなずいてくれた。
さあ、作ろう。ほっこりと温まる、おいしいシチューを。僕たちはそろって台所に立ち、ノートを広げたのだった。