きみといっしょに、おやすみを。

 千夏は、俺の恋人だ。
 高校の同級生で、付き合いはじめてそろそろ二年になる。
 照れ屋ゆえにちょっと愛想がなくて誤解されやすいけど、本当は誰よりもピュアで優しい子だ。
 俺はそんな彼女が可愛くて仕方がなく、高校時代はひたすら構い倒していた気がする。

 だけど、進学を機に遠距離恋愛がはじまった。
 千夏は、地元から通える短大に進んだのだ。

「あんたと一緒にいたいからって理由で、将来を妥協するのは……なんか、違うでしょ」

 そう言いながらも、散々悩んでいたのは知っている。
 だけど千夏の学びたい学科は、俺の大学にはなかった。だから俺たちは、別の学校に進んだんだ。

 快速電車で一時間ちょっとなんだから、そんなに”遠距離”ではないだろう。
 世の中には、もっと離ればなれになってしまうカップルもいるはずだ。

 それはわかっているけれど……やっぱり、寂しい。



「千夏……。なんで、急に?」

 部屋の中に入りながら尋ねると、スニーカーを脱いだ千夏が、俺を見上げる。
 俺達はけっこう身長差があるので、こういうとき、千夏はどうしても上目遣いになる。
 大きな目で俺を見上げてくれるのが、とても愛らしい。

「……うん、急にごめん。でも昨日、”会いたい”って言ってたでしょ」
「マジで会いにきてくれるとは……」

 昨日のメッセージのやりとりは、ちゃんと覚えている。週末の予定について話していたんだ。

 試験勉強のため、今週の土日はずっと家にいる予定だった。
 千夏も同じだと知ったので、俺は冗談まじりに”じゃあ俺の部屋で勉強しない? 千夏に会いて~!!”と送ったんだ。
 そのときはシュールなスタンプでごまかされたし、さすがに試験前の大事な時期だから、自重していた。

 でも千夏は、会いにきてくれたんだ。

 驚いて目を丸くする俺に、千夏はぷいっと顔を背けた。
 でも、さらりと揺れた髪からのぞく頬は、赤く染まっていた。

「……こうでもしないと、なかなか会う時間は作れないでしょ」
「~~っ、千夏ぁ~っ!!」

 もう一回抱きつこうと腕を広げたところで、がしっと肩を押さえられた。

「もうっ、二度も抱きつくな! っていうかあんた、汗臭いよ。早くお風呂入っちゃいなさい! そのあいだに晩ごはん作っちゃうから」
「へっ、晩ごはん? ……作ってくれんの!?」
「近くにスーパーあったでしょ。そこでなんか材料買ってく……あ~っ! もうっ!!」

 勝ち気ながらもしっかり俺の世話を焼いてくれるなんて。
 なんて最高の彼女なんだと、感極まってしまう俺だった。

 千夏は俺が抱きつくのを阻止しようとしてたみたいだけど、そりゃあ男と女の子だから、力の差は圧倒的だ。
 ぎゅ~っと二回目のハグをすると、千夏は最初こそ暴れていたけれど、大人しくなった。



 買い物には俺も同行した。
 千夏に買い出しを任せて自分はのんきに風呂になんて、入れるわけがない。
 スーパーで食材を選ぶ千夏がいかにも奥さんっぽかったので、「新婚夫婦みたいだな~!」と言うと、ジト目でにらまれてしまった。まあ、それも可愛いんだけど。

 千夏がご飯を作ってくれるあいだ、先に風呂に入らせてもらった。
 せまいユニットバスでシャワーを浴びていると、いい匂いがただよってきた。
 その匂いはもちろん、千夏が台所で調理をしている物音が、なんとも心地良かった。

 ……家に自分以外の誰かがいるって、いいもんだな。

 風呂から上がると、食事の支度がみごとに完了していた。
 ねぎ塩豚丼に冷やしトマト、なすと小松菜のみそ汁。

 米を炊く手間が惜しくて、最近は麺類やトーストばっかりの食事になっていた。
 だから、スタミナがつきそうな献立がとても嬉しい。
 ふだん簡素な食事ばかり置いてあるテーブルが、今日はすごく輝いて見えた。

 しかも千夏は、料理上手なのだ。多忙なお母さんの代わりに、ずっと家事をしてきたんだから。
 色鮮やかな献立がどれも美味しいことは、俺がよく知っている。

 こんなの見せられて、食欲が抑えられるわけがない!
 よだれが垂れないように気をつけながら、千夏にお礼を言う。

「ありがと~っ!! すっげー嬉しい!」
「……いいから食べるよ」

 千夏は照れたようにそっぽを向いていたけど、その口元がほんのり和らいでいた。



 後片付けはすると申し出たものの、千夏は俺の顔をじっと見つめて、「別に、ついでだからいいよ」と、有無を言わせぬ様子で台所に立ってしまった。
 流しの前にふたりも立てるほど、台所は広くない。
 俺は素直にうなずいて、ベッドに腰を下ろした。

 ……ひょっとして、気づかってくれてるのかな。

 ふだんから親切な子だけど、今日は一段と、世話を焼いてくれている気がする。
 ……ダメだなあ、俺。忙しいのは千夏も同じなのに。
 千夏もバイトを始めたと言っていたし、相変わらず、家事もやっているのだろう。

 たまに会えたときくらい、俺が千夏を元気づけたいのにな……。

「……な~に、暗い顔してんの」

 はっと顔を上げれば、いつの間にか目の前に千夏が立っていた。
 俺の顔をのぞきこんで、つんっとおでこを突いてくる。

「……や~だぁ、そんな暗い顔してた?」
「うん。してた。この世の終わりみたいだった」

 笑ってふざけたつもりだったけど、千夏は大真面目な顔でうなずいた。
 ぽかんとしていると、千夏が俺の隣に座る。
 じっと俺の目をのぞきこんだまま、今度は頬に手を伸ばしてきた。触れた手のひらは、洗い物をしていたせいかひんやりしている。

「疲れてるんでしょ?」
「なんで……」
「わかるよ、それくらい」

 ふいに千夏が、柔らかく微笑んだ。
 付き合ってから時たま見せてくれる、俺の大好きな表情だ。

「通話してて気になってたけど、声が落ち込んでたし」
「え……声に出てたんだな。五月病ならぬ、七月病ってやつかな。新生活の疲れが出てたのかも」

 しゅんっとうなだれながら言うと、千夏が俺の頭を撫でてくれる。
 ほっそりとした指の感触が心地よくて、俺はついつい、弱音を吐いてしまう。

「だからか、わかんねえけど……バイトでちょっと、やらかしちゃってさ。あー、俺ダメだなあって、思ってた」
「……うん」
「やっと仕事を覚えられてたのに、情けねえよな。千夏だって頑張ってるのにさ」
「別に、情けなくない」

 きっぱりと言いきった千夏は、まっすぐ俺を見つめた。

「疲れてるのに精一杯頑張ろうとするあんたは、えらい。バイトだって、仕事を覚えようと必死だったんでしょ。勉強も手を抜いてないんだって、この部屋を見てたらわかるよ」

 千夏が目を向けたのは、俺の勉強机。
 そこには書きかけのレポート用紙が山積みになっていた。今朝ようやく完成したレポートの、ボツになったものだった。その近くには、レポートを書くときに参考にした本が散乱している。
 ……俺からしてみれば”もうちょっと片付けろよ”としか思えないんだけど、千夏はそれを、”頑張ってる”と受け取ってくれたんだな。

「あんたが、ふだんおちゃらけてるけど本当は真面目な頑張り屋だって、……ちゃんと、知ってるよ」
「……千夏……」

 情けない声で呼ぶことしかできない俺に、千夏がくすりと笑った。手を伸ばし、抱きしめてくれる。

「えらい、えらい。……頑張ったね」

 ……ダメだ、涙腺が刺激される。
 照れ屋で不器用な千夏は、言葉がキツいときはあるけれど……本当は誰よりも思慮深くて、おせっかいで、……とても優しい。

「……調子が悪いときくらい、甘えたら? なんのために私がいると思ってんの」
「……ん。ありがと」

 小さな背中に手を回し、強く抱きしめる。
 肩に顔をあずける俺の背中を、なだめるようにさすってくれた。

「……なー、千夏」

 しばらくしてから名前を呼ぶ。

「千夏のおかげでだいぶ元気でたんだけど、……膝枕なんかしてくれたら、もっと元気出たりして!」

 甘えと、ちょっと下心を込めて。
 千夏の顔をのぞきこむと、その頬が赤くなった。
「ばーか」なんて毒づきながらも、千夏は体勢をととのえ、ひざをポンポンと叩いてくれた。

 膝に頭を乗せると、柔らかい感触と、かすかな柔軟剤の香り。
 ちょっぴり汗のにおいがするのは、暑いなかわざわざ俺に会いにきてくれた勲章だ。

 大好きな彼女のにおいをひとり占めしていると、眠くなってきた。
 まぶたが重たくなっているのに気づいた千夏が、肩をトントンと叩いてくれる。

「――おやすみ、恭太郎(きょうたろう)」
「ん……おやすみ……」

 まるで母親に寝かしつけられる子どものように、俺は目を閉じた。
 そしてあっという間に、眠りの世界に引き込まれていった。

 たっぷりの安心感としあわせに、満たされながら……。



 忙しい毎日。ひとりで迎えた新生活。
 でも俺は、決してひとりぼっちなんかじゃないんだ。

 ありがとう。
 おいしいご飯を食べさせてくれて。
 優しい言葉で励ましてくれて。
 温かい声で、”おやすみ”を言ってくれて。

 でも俺だって、千夏のことを支えたいんだからな。
 千夏がつらい想いをしていたら、今度は俺が、同じことをするんだ。

 だからこれからも……。
 俺といっしょに、”おやすみ”を言ってください。

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