きみといっしょに、おやすみを。
千夏は、俺の恋人だ。
高校の同級生で、付き合いはじめてそろそろ二年になる。
照れ屋ゆえにちょっと愛想がなくて誤解されやすいけど、本当は誰よりもピュアで優しい子だ。
俺はそんな彼女が可愛くて仕方がなく、高校時代はひたすら構い倒していた気がする。
だけど、進学を機に遠距離恋愛がはじまった。
千夏は、地元から通える短大に進んだのだ。
「あんたと一緒にいたいからって理由で、将来を妥協するのは……なんか、違うでしょ」
そう言いながらも、散々悩んでいたのは知っている。
だけど千夏の学びたい学科は、俺の大学にはなかった。だから俺たちは、別の学校に進んだんだ。
快速電車で一時間ちょっとなんだから、そんなに”遠距離”ではないだろう。
世の中には、もっと離ればなれになってしまうカップルもいるはずだ。
それはわかっているけれど……やっぱり、寂しい。
*
「千夏……。なんで、急に?」
部屋の中に入りながら尋ねると、スニーカーを脱いだ千夏が、俺を見上げる。
俺達はけっこう身長差があるので、こういうとき、千夏はどうしても上目遣いになる。
大きな目で俺を見上げてくれるのが、とても愛らしい。
「……うん、急にごめん。でも昨日、”会いたい”って言ってたでしょ」
「マジで会いにきてくれるとは……」
昨日のメッセージのやりとりは、ちゃんと覚えている。週末の予定について話していたんだ。
試験勉強のため、今週の土日はずっと家にいる予定だった。
千夏も同じだと知ったので、俺は冗談まじりに”じゃあ俺の部屋で勉強しない? 千夏に会いて~!!”と送ったんだ。
そのときはシュールなスタンプでごまかされたし、さすがに試験前の大事な時期だから、自重していた。
でも千夏は、会いにきてくれたんだ。
驚いて目を丸くする俺に、千夏はぷいっと顔を背けた。
でも、さらりと揺れた髪からのぞく頬は、赤く染まっていた。
「……こうでもしないと、なかなか会う時間は作れないでしょ」
「~~っ、千夏ぁ~っ!!」
もう一回抱きつこうと腕を広げたところで、がしっと肩を押さえられた。
「もうっ、二度も抱きつくな! っていうかあんた、汗臭いよ。早くお風呂入っちゃいなさい! そのあいだに晩ごはん作っちゃうから」
「へっ、晩ごはん? ……作ってくれんの!?」
「近くにスーパーあったでしょ。そこでなんか材料買ってく……あ~っ! もうっ!!」
勝ち気ながらもしっかり俺の世話を焼いてくれるなんて。
なんて最高の彼女なんだと、感極まってしまう俺だった。
千夏は俺が抱きつくのを阻止しようとしてたみたいだけど、そりゃあ男と女の子だから、力の差は圧倒的だ。
ぎゅ~っと二回目のハグをすると、千夏は最初こそ暴れていたけれど、大人しくなった。
*
買い物には俺も同行した。
千夏に買い出しを任せて自分はのんきに風呂になんて、入れるわけがない。
スーパーで食材を選ぶ千夏がいかにも奥さんっぽかったので、「新婚夫婦みたいだな~!」と言うと、ジト目でにらまれてしまった。まあ、それも可愛いんだけど。
千夏がご飯を作ってくれるあいだ、先に風呂に入らせてもらった。
せまいユニットバスでシャワーを浴びていると、いい匂いがただよってきた。
その匂いはもちろん、千夏が台所で調理をしている物音が、なんとも心地良かった。
……家に自分以外の誰かがいるって、いいもんだな。
風呂から上がると、食事の支度がみごとに完了していた。
ねぎ塩豚丼に冷やしトマト、なすと小松菜のみそ汁。
米を炊く手間が惜しくて、最近は麺類やトーストばっかりの食事になっていた。
だから、スタミナがつきそうな献立がとても嬉しい。
ふだん簡素な食事ばかり置いてあるテーブルが、今日はすごく輝いて見えた。
しかも千夏は、料理上手なのだ。多忙なお母さんの代わりに、ずっと家事をしてきたんだから。
色鮮やかな献立がどれも美味しいことは、俺がよく知っている。
こんなの見せられて、食欲が抑えられるわけがない!
よだれが垂れないように気をつけながら、千夏にお礼を言う。
「ありがと~っ!! すっげー嬉しい!」
「……いいから食べるよ」
千夏は照れたようにそっぽを向いていたけど、その口元がほんのり和らいでいた。
*
後片付けはすると申し出たものの、千夏は俺の顔をじっと見つめて、「別に、ついでだからいいよ」と、有無を言わせぬ様子で台所に立ってしまった。
流しの前にふたりも立てるほど、台所は広くない。
俺は素直にうなずいて、ベッドに腰を下ろした。
……ひょっとして、気づかってくれてるのかな。
ふだんから親切な子だけど、今日は一段と、世話を焼いてくれている気がする。
……ダメだなあ、俺。忙しいのは千夏も同じなのに。
千夏もバイトを始めたと言っていたし、相変わらず、家事もやっているのだろう。
たまに会えたときくらい、俺が千夏を元気づけたいのにな……。
「……な~に、暗い顔してんの」
はっと顔を上げれば、いつの間にか目の前に千夏が立っていた。
俺の顔をのぞきこんで、つんっとおでこを突いてくる。
「……や~だぁ、そんな暗い顔してた?」
「うん。してた。この世の終わりみたいだった」
笑ってふざけたつもりだったけど、千夏は大真面目な顔でうなずいた。
ぽかんとしていると、千夏が俺の隣に座る。
じっと俺の目をのぞきこんだまま、今度は頬に手を伸ばしてきた。触れた手のひらは、洗い物をしていたせいかひんやりしている。
「疲れてるんでしょ?」
「なんで……」
「わかるよ、それくらい」
ふいに千夏が、柔らかく微笑んだ。
付き合ってから時たま見せてくれる、俺の大好きな表情だ。
「通話してて気になってたけど、声が落ち込んでたし」
「え……声に出てたんだな。五月病ならぬ、七月病ってやつかな。新生活の疲れが出てたのかも」
しゅんっとうなだれながら言うと、千夏が俺の頭を撫でてくれる。
ほっそりとした指の感触が心地よくて、俺はついつい、弱音を吐いてしまう。
「だからか、わかんねえけど……バイトでちょっと、やらかしちゃってさ。あー、俺ダメだなあって、思ってた」
「……うん」
「やっと仕事を覚えられてたのに、情けねえよな。千夏だって頑張ってるのにさ」
「別に、情けなくない」
きっぱりと言いきった千夏は、まっすぐ俺を見つめた。
「疲れてるのに精一杯頑張ろうとするあんたは、えらい。バイトだって、仕事を覚えようと必死だったんでしょ。勉強も手を抜いてないんだって、この部屋を見てたらわかるよ」
千夏が目を向けたのは、俺の勉強机。
そこには書きかけのレポート用紙が山積みになっていた。今朝ようやく完成したレポートの、ボツになったものだった。その近くには、レポートを書くときに参考にした本が散乱している。
……俺からしてみれば”もうちょっと片付けろよ”としか思えないんだけど、千夏はそれを、”頑張ってる”と受け取ってくれたんだな。
「あんたが、ふだんおちゃらけてるけど本当は真面目な頑張り屋だって、……ちゃんと、知ってるよ」
「……千夏……」
情けない声で呼ぶことしかできない俺に、千夏がくすりと笑った。手を伸ばし、抱きしめてくれる。
「えらい、えらい。……頑張ったね」
……ダメだ、涙腺が刺激される。
照れ屋で不器用な千夏は、言葉がキツいときはあるけれど……本当は誰よりも思慮深くて、おせっかいで、……とても優しい。
「……調子が悪いときくらい、甘えたら? なんのために私がいると思ってんの」
「……ん。ありがと」
小さな背中に手を回し、強く抱きしめる。
肩に顔をあずける俺の背中を、なだめるようにさすってくれた。
「……なー、千夏」
しばらくしてから名前を呼ぶ。
「千夏のおかげでだいぶ元気でたんだけど、……膝枕なんかしてくれたら、もっと元気出たりして!」
甘えと、ちょっと下心を込めて。
千夏の顔をのぞきこむと、その頬が赤くなった。
「ばーか」なんて毒づきながらも、千夏は体勢をととのえ、ひざをポンポンと叩いてくれた。
膝に頭を乗せると、柔らかい感触と、かすかな柔軟剤の香り。
ちょっぴり汗のにおいがするのは、暑いなかわざわざ俺に会いにきてくれた勲章だ。
大好きな彼女のにおいをひとり占めしていると、眠くなってきた。
まぶたが重たくなっているのに気づいた千夏が、肩をトントンと叩いてくれる。
「――おやすみ、恭太郎(きょうたろう)」
「ん……おやすみ……」
まるで母親に寝かしつけられる子どものように、俺は目を閉じた。
そしてあっという間に、眠りの世界に引き込まれていった。
たっぷりの安心感としあわせに、満たされながら……。
*
忙しい毎日。ひとりで迎えた新生活。
でも俺は、決してひとりぼっちなんかじゃないんだ。
ありがとう。
おいしいご飯を食べさせてくれて。
優しい言葉で励ましてくれて。
温かい声で、”おやすみ”を言ってくれて。
でも俺だって、千夏のことを支えたいんだからな。
千夏がつらい想いをしていたら、今度は俺が、同じことをするんだ。
だからこれからも……。
俺といっしょに、”おやすみ”を言ってください。